自分なりのアクロバティックさ

現在温め中/準備中のプロジェクトの進み具合がスローになっている。言い換えると、腰が重たくなっている。デザインしたものをデジタル商品として売っていくというプロジェクトなのであるが、いまはいよいよそのデザイン(商品)をつくるぞ、という段階である。

コピー用紙に下書きを書いてみたり、本やウェブで調べ物をしたりして、ちょこちょこ進んではいる。それで、今月中には最初の商品がだせているスケジュールを組んでいるのだ。これもあって、ちょいと焦りも感じる。こういうのはよくない。「腰の重たさ・焦り・期日」の三重奏が脳内で鳴り響き、不協和音に変わっていきそうな気配がある。そんな音は聞きたくない。聴かなくなる。聞かなくなる。腰はしずむ。

とちょっと深刻っぽく書いてしまったが、そうでもない。今までは「すごいものやったるで」という意気込みでいろいろ準備してスタートしていたが、それがうまくいかない関係で軌道修正している。その最中であるから、こうやって葛藤のようなものが生まれるのは自然である。なんせ、調整中ですから。サイトの「工事中」表示みたいなものである。

思考の癖で「これをやって」「次はこれで」と段取りを組んでしまう。「やって」「だす」という感じ。そうではなく「やりながらだす」と一緒にしちゃえばいい。坂口恭平さんが「アウトプットなんてうんちだよ」というようなことを書いていて、そういう意識に再び寄りつつある。

アウトプットはうんちだから、とにかく出さないと。質なんてべつにいいよ。とにかく出す、出す、うんち、出す。こうして書いているのもこの一環ではあるけど、この意識を他の領域に拡大すべく、おれの脳は工事中である。そこにはこれまでやってきた経験からできあがっている「コンテンツ制作者としてのプライド」のようなものも含まれており、それも一旦ほぐさなくてはいけない。「すごいものやったるで」から「うんちだしてるで」へのトランジションである。なにかを諦めつつあることで、なにかが明らかになりつつあるのだと信じている。

Re: デリダる

だらだらと書いてしまったけど、このプロセスはおれなりの「デリダる」、脱構築なんだろうな。

流動性知能と結晶性知能の話で、前者は「状況への適応力」ともいえて若いほど高い。一方で後者の結晶性知能は経験をつむごとに積み重なっていき、30代、40代と高まっていく。年をとると頑固になるという話があるのは、この結晶性知能が増えていくからという話だったと記憶している。まあ、そりゃ結晶ばっかりが増えちゃったら液体が入り込むスペースが少なくなって流動性は落ちるわなあと想像はできる。

あと4ヶ月ちょっとで37年生きたことになろうおれの人生、それなりに結晶化されたものがある。結晶のまま残しておきたいものも当然あるが、最近は「どの結晶を溶かすか」という感じかもしれない。できあがった方程式の変数を変えたり、増やしたり、消したり、そういう作業のようにも思えてくる。

学生時代に持っていた“まじめ”コンプレックスは、水木しげるさんの「なまけなさい」という言葉の一撃で解決した。ああなるほど、そのまじめさに乗っかればいいだけだ、「まじめに、なまける」をやればいいだけなのだ、と腑に落ちた。だから、まじめと気晴らし、共存しえぬ二つの言葉と所作もどこかでまざり溶け合う瞬間がくるのではないかと思ってしまった。

言ってしまえば「やるべきこと」があるのに、こうして「書いて」いるのは、「まじめになまけている」ということなのかもしれない。久々にカフェ気分スペースで作業しているが、個人プロジェクトのことを5分ほど考えてから、「おれはいま本が読みたいのよ」と本を読み、「おれはいま書きたいのよ」とこうして書いている。「やるべきことに手をつけない」という意味ではなまけているが、その場所に向かってちょいと遠回りしているだけである。トイレ休憩。タイムカードは押してないよ。

— ☕️ —

『訂正する力』で、同じ空気(ゲーム)の中にいながらちょっと違うことをして、その空気(ゲーム)が「いつのまにか変わっている」状況をつくる、という話がある。こういう”アクロバティック”なことをするしかない、という。アクロバティックの意味は「曲芸」らしい。高度は身体技術。シルク・ド・ソレイユが浮かぶ。

「いつのまにか変わっている」状況をつくるのは、シルク・ド・ソレイユの劇団員になるほどの難易度なのだろう。正解・不正解の思考ではなく、ちょいとブレつつ、ちょいと訂正しつつやっていく。おれの場合だと、脳内で見出しテキストくらいの存在感があった「熱中」「夢中」という言葉の太字を解いてみる。細字にしてみる。そういうやつである。

なんかそういう地味なことをちょこちょこやっていって、気づいたら変わっているのかもしれない。退職してからの半年くらいの模索は結晶性知能を活用した「いままで」の試行錯誤で、ここ数ヶ月は結晶を溶かしつつの、いまだ見えぬ「これから」の(自分という人間の)ゲームルールへのゆっくりなトランジションなのだろう。今のフレームは薄まっているが、次のフレームが見えているわけではない。でもそれはゆったりと進行している。

5、6年前の自分は、シルク・ド・ソレイユの劇団員を目指していたようなものかもしれない。いまの自分は違っている。劇団員を目指していないわけではない。「目指している」と「目指していない」の間を浮遊している。「目指していない」にいくつもりはない。「る」と「ない」の間。「る」「ない」「ru」「nai」。「らい」だ。いまのおれはシルク・ド・ソレイユの劇団員を「目指してらい」だ。

アクロバティックなことはしたい。アクロバティック。ア、ク、ロ、バ、テ、ィ、ッ、ク。その全体像を見つめずに要素だけを取り出してバラバラにして、また自分なりの「あくろばてぃっく」を構築していきたいんだろう。そして、その「あくろばてぃっく」をどう披露するのか、という点についても同時に脱構築が進んでいるように感じる。

なんだからまとまらないが、この日記自体が脱構築されたがっているということにしておこう。まとまったものはわかりやすいけど、ばらばらになりたがっているものはよくわからない。

p.s. 『さみしい夜にはペンを持て』を読んだ。一気に読めた。著者の言語化にうなりつつ、再確認に近い読書体験だった。いまの自分(ヤドカリのおじさん)が10年前の自分(タコジロー)に語りかけているようにも読めた。昔つけていた手書きの日記が数冊実家にあることを思い出し、それを読み返したくなった。手書きで書く、キーボードで打つ、しゃべるの効用の違いについても考えをめぐらせた。

ネトフリの『キャロルの終末』をみおわって、「やりたくないことをしていた量」と「はっちゃける度合い」の関係について考えたりしていた。「やりたくないこと」をしていたわけではないけど、「やりたいこと」をしていたわけではない、「やりたくないこと」と「やりたいこと」の間にいるのがキャロルなのかもしれない。

あと最近、『SPY×FAMILY』をみはじめた。アーニャがかわいい。『PERFECT DAYS』はおれも気になってるんだよなあ。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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