おれにとっての”根っこ”は、なんなのだろうか。「物事の見方を変え、切り取り方を変え、表現の幅を広げていきたい」というのは、おれも持っていると感じている。
Re: 右ききのみじめ
自分になにが表現できるのか、自分に向けて、社会に向けて。自分にとっての初めての表現が、小学校の頃のワンピースのキャラクターの模写だとカウントするのであれば、この実験を20年以上続けていることになる。
社会なんてものはよくわからないながらも「社会になにかを届けたい」とネットで文章を書くようになったのが、11年前の25歳の頃である。その手前の高校時代には村上春樹に出会っていて、読書もするようになっていた。読書が自分の学習欲の受け皿になり、これはいまも続いている。
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最近、我が家にポトスがやってきた。根っこを観察したいから、プラスチックのカップ容器に水を入れて育てている。10日ほど経過したが、白い根っこが3cmほど伸びてきている。これを覆うように全体に産毛がある。これを「根毛」というらしい。
根毛ってなんであるんだ、と調べてみたら、どうやら根っこの表面積をふやして栄養吸収を効率的にしたり、土の中で抜けにくくしたり、微生物との相互作用を助けたりするらしい。かなり大事らしい。植物と外界との間の緩衝材みたいなものにも見えてくる。
根っこというのは土の中にあることが多いから、基本は隠れている。見えるのは、その上の部分である。茎であり、葉であり、実である。根っこは掘らない限りはみえないし、植物からしたら掘られたらとても困るだろう。「かんべんしてくださいよ。見せものじゃないんですから」と怒られそうである。
価値観のようなものとしての自分の”根っこ”を考えたとき、これだって見えやすいものではないんだろう。植物の形態から想像して「他者に見せるもんじゃない」と極端に考えることだってできる。でも大事だ。なくなってしまったら生きていけない。本体があり、根っこがあり、根毛があり、その根毛から吸収したものが中心柱を通って、本体をうるおす。根っこは確かにある。じゃあ、おれの根っこはどんな形をしているのだろうか。根毛はあるのだろうか。
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昨日、ヒカリエで開催中の展示「ソール・ライターの原点 ニューヨークの色」に行ってきた。ニューヨークで写真家・画家として活動していたソール・ライターの作品が、ふんだんに展示されていた。
ここからはうるおぼえの内容で情報の正確性については問いつけないでほしいのだけど、ソール・ライターが世間に存在を発見された、「すごい人がいるぞ」となったとき、彼は80歳を超えていたそうである。89歳で亡くなったあと、部屋には大量の写真(厳密にはプリントしたものでなく、元のスライドのようなもの?)が残されていて、それを掘り起こす作業がいまでも行われていると。
ソール・ライターは、亡くなってから評価された写真家だったのか、と感じた。こういう「しんでから売れた」という話は他にもあったような気がするし、宮沢賢治もそうだったようである。生きているときはそこまで評価されなかった。写真家としてのソール・ライター、作家としての宮沢賢治は、しんでから掘り起こされた。
彼らが生きているときに「なんで評価されないんだ」と苦悩をしていたのかどうかはわからない。「おれは評価なんて気にしない」だったのか、「なんで評価してくれないんだ」だったのか。もしくは、その間だったのか。
ただ、2人の根毛はすごかったんだろうなって、ふと思う。根っこ自体もすごいが、根毛だってすごかったのだろうきっと。亡くなってしまっても、しなやかで丈夫な根っこは残り、壮大な時間差を耐え抜いて、掘り起こされた。「掘り起こされた」というと根っこが出ちゃってるみたいな印象だけど、もしかしたらいろんな人の根っこと交流しあっている、みたいな感じかもしれない。
おれの根っこはどんな形をしているのか、この思考がまったく進まないなかでここまで書いてしまった。
※サムネはUnsplashより
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