最近、構造主義というものについて読んでいる。きっかけは、『野の医者は笑う』という本である。ここからレヴィ=ストロースという人物につながって、コテンラジオを聴き、100分で名著の野生の思考を読んで、本棚にある『言語の本質』を再読しようかなと目線をたまにやりつつも、『寝ながら学べる構造主義』を読んでいる最中である。
なんで関心が構造主義とかいうむずかしい概念に向かっているのかというと、たぶんそこには「やりたいことを自力で探しても限界がある」という感触が年々増しているのがある気がする。あと、この概念がわりと新しいものでーーーもっとも新しい哲学概念だという話もあった気がするーーーこれがいまの社会を理解するにいい感じの考え方ではないのか、というのもありそうではある。
Re: ロー
それでRAWの話を読みながら、かいつまんだ生煮えの構造主義のなんちゃって知識を交えつつ思うのは、「書く」という行為の意義のひとつとして「矛盾していること」を書いちゃうっていうのもあるのかもしれないということだった。
書いて、編集して、言葉を整える。そういう感じだと「他者」を意識した上では「読みやすい」となるけど、そのときの「自分の思考」を言語化するという意味では、整えることで実は大事なのにこぼれおちてなかったことになっているものがあるのではないか。しかも整えちゃうと、その存在自体に気づかなくなってしまう。deleteキーを繰り返し打つことで、見つめるべきもの、見つめたくないものがどんどんどんどん、”無意識”というレイヤーから上がってくることを抑圧してしまうのではないか、とか。
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おれは最近「巻き込まれたい」と思ったりする。これはいろいろなことを自力(自分主体でいろいろと物事を動かそうとすること)でやることと好奇心の両立に限界を感じていることがあるのだけど、それを「巻き込まれたい」と言語化すると、なんか言いすぎな気がしている。でも「巻き込まれたい」のである。それ以外の言葉がいまのところ見つからない。
こうやって「巻き込まれたい」と言語化するのは初めてな気がするのだけど、それを「巻き込まれたい」という言葉に集約するのはなんか違うとも思っている。まきこまれたい、マキコマレタイ、マキコマレタイ。うん、「マキコマレタイ」はいいな。わかりにくい。近寄ってみないと何が言いたいのかわからない。全部「巻き込まれたい」と言っているのに、それを半角カタカナにすると、もうちょっと自分に近づく気がする。
こいつは巻き込まれたいと言っているのに、それはちょっと違うといっている。そんでもって言い換えてもいるが、結局は「巻き込まれたい」んだろ?そんなふうに思うかもしれないけど、おれは巻き込まれたいのではなく、おれはマキコマレタイ… そういう感じである。
なんかこういうよくわからないことを書いておく、というのがけっこう大事なのかもしれない。
P.S. 『野の医者は笑う』という本、めちゃくちゃよかった。現時点で、今年読んだ本の中では一番だなあ。うまく説明できないけど、なんとも感動的な本だった。世間にある"怪しいスピリチュアル療法"というものがどんなものか、なんで需要があるのか、そんなことを著者が一体となって、まじで全然バカにできなくて、むしろ「すごいわあ!感動だわあ!」とフィニッシュを迎えた。野の医者たち、なんちゅうたくましい人たちなんだ、と思った。
※サムネはUnsplashより
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